- Producer / Creative Director
- KAZUSHIGE SE(ii-inc)
- Casting / Coordinator
- WANDA
- Art Director / Designer
- SHINPEI ONISHI
- Photographer
- KENTA KIKUCHI(SEKIKAWA OFFICE)
- Camera Assistant
- RYO NAGATA
- Editor / Writer
- SHOTA KATO(OVER THE MOUNTAIN)
- Writer
- SHINRI KOBAYASHI, KEISUKE KIMURA
- Movie Director
- SHINSHIN
- Exhibition Designer
- AKIRA YAMAGE(mountain house architects inc)
-
意志を持つことが、こだわりなのかもね。
イギリスを好きになったのは、音楽と服を通じて。ただ、それだけのことだよ。1986年から2年間、ロンドンに住んでみて現地の人たちと友達になって、服以外にも影響を受けたりするなかで、自分にとって大事なことがわかったからだし、音楽とファッションがリンクしていた、当時のカルチャーがとにかく好きだから。物価が高いのは嫌だけど暗い天気は悪くないね。人の気質も日本人と似ているし。
音楽はThe Smithsをよく聴いていたし、いまでもThe Beatlesが一番好き。服とか靴はなるべくMADE IN ENGLANDにこだわっている。店の名前の「COUNCIL FLAT 1」はイギリスの公営住宅のこと。置いてあるものもほとんどイギリスの古着っていうね。もちろんフットボールも好きだけど、最近は大谷翔平の試合をよく観ているな。やっぱり大谷は特別でしょ。
でも、あくまでこだわりっていうのは自己満足だから、人に押し付けることでもないしね。こだわらない人はそのままでいいけど、自分は突き詰めたいと思うタイプ。いろんなことを、知らないよりは知っていたほうがいいじゃん。
ファッションに関して思うのは、服はちゃんと着るものってくらいで、あとはご自由に。人に不快感を与えなきゃいいなくらいしか考えていないな。センスがないやつはセンスがないし、鍛えるものでもないし。そもそもセンスって、結局は何に興味を示すかでしょ。俺の場合は、たまたまそれが音楽やファッションだっただけで。
自分がかっこいいと思う人真似でも最初はいいんだって。そいつのファッションを見たら、音楽が好きなんだろうな、イギリスが好きなんだろうな、バイク好きなんだろうなとか、いろいろわかるよね。かっこいいとかかっこ悪いとかじゃなくて、そいつのスタイルが服として表れている感じ。それが出ている若いやつらはおもしろいよね。最近はイギリスに行けていないけど、たとえばイギリスに興味があるなら実際に行ったほうがいいね。いまの時代は交流の仕方がいろいろあって便利だけど、実際に目にしないとわからないことっていっぱいあるから。実際に足を運ぶってことは大事。それはいまも昔も変わらないだろ。
お店を原宿に開いた理由も、それこそ本当にたまたまだよ。街並みはちょっと変わったかもしれないけど、原宿みたいにちょっと変わったおもしろい人たちが集まる場所は世界中探してもないだろうから。特に昔はかっこいい、オリジナルな人たちがいまよりも全然多かった気がする。しっかりと意志を持って服を着たり、何かをやるっていうかさ。それが、こだわりってことなのかもね。 -
5067人のアンケート。
はじめてストリートスナップを撮ったのが2004年。きっかけは交通事故みたいなものなんですけど、当時働いていた編集部のボスにいきなりカメラを渡されて「スナップ撮ってきて」って。まったく興味もなかったし使い方もわからなかったけど、そのときから20年も撮り続けているなんて。
その当時は急に男の子がオシャレになったタイミングでしたね。古着の人、モードな人、ヒッピーっぽい人もいたりして、混沌とした感じがかっこよかった。個性があるほどいいみたいな感じで、とにかく自分のキャラ全開。「原宿はオシャレしに行く場所」って感じだったから、そんな子たちがたくさん集まってきていたし、「GAP」前のベンチに座るのがステータスでした。
海外や現地のコレクションで撮影した人はカウントしていないから正確な数字は把握していないけど、これまでアンケートを書いてもらって、しっかりスナップを撮影したのは5067人。
始めた頃は、海外の人たちに東京、原宿のリアルなファッションをちゃんと知ってほしいなっていう気持ちでした。というのも、そのときの原宿のイメージってロリータとか超奇抜なファッションが先行していたんです。でも、リアルにオシャレな人もいっぱいいるわけじゃないですか。私が思う原宿のイメージと海外の人のイメージが乖離していたから、それを埋めたいなと思って。いまはSNSもあるからイメージの差はなくなってきているとは思います。うけど、私個人としてはスナップに仕事の意識はあまりないですね、もはやライフワークって感覚なので。
だから、飽きることもないんですよね。それもきっと原宿が新陳代謝の街だからだと思います。例えば、大学入学と同時に地方から上京して、原宿で過ごすとしますよね。でも4年生になって就職すると原宿を卒業しちゃう。それと同時に、また18歳の子たちがやってくる。常に街が新しい人たちで溢れてるんです。ずっと原宿で撮影していると慣れてくるんですけど、例えばパリにちょっと行ったりして戻ってくると、すぐスナップを始めたの頃の感覚に戻っちゃう。久々に原宿に来ると、いまだにすごいめっちゃ緊張するんですよ。自分の目でキャッチできないんじゃないか、いい瞬間を撮れないんじゃないかとか。私にとってこの街は一番ハードルが高いかもしれないです。
撮りたい基準はいくつかあります。ファッションとしてすごく長けてる人はもちろんなんですけど「オシャレが楽しくて仕方ない!」っていう、キッズの情熱に惹かれて撮っちゃうことも結構あります。帽子を2つ被っていたり、夏なのにすごい重ね着をしてたり。逆に冬なのにペライチの人とか。「大丈夫? 風邪ひかない?」みたいなね(笑)。
スナップの撮影をしていると、もがいている子たちとたくさん出会うんです。何者かになりたい子たち、っていうのかな。彼らと接するたびに、自分もこのままじゃいけない、新しいことに挑戦しなきゃって思わされるんです。例えば、同じことをしていたら勝ちパターンがわかっちゃうじゃないですか。失敗をしなくなる。自分で自分のことを真似しちゃうこともあったりして。それを続けていても自分は更新されていかないですよね。現状維持=衰退だと思っているから、いまもラジオやYouTubeだったり、新しいことにチャレンジし続けるんですね。
新しいことをやって失敗しても、まったく落ち込まない。失敗は折り込み済みで失敗していますから。そもそも、やったことがないんだから、9割9分失敗すると思うんですよ。だから最初の私のYouTubeなんて時間もかかったし、めちゃくちゃぎこちない(笑)。そうやって新しいことに挑戦して失敗するのは、結構好きだったりするんです。 -
回り道して、2回目の人生を楽しむ。
サッカーで高校に推薦入学して、そのあと日体大に入ってすぐに気づいたんです。「自分、運動神経わるっ!」って。クラスにオリンピックに出たヤツらがめちゃめちゃいたんですよ。東京すごいなと思って。それがきっかけで、ずっと続けてきたスポーツから現実逃避して、原宿でおもちゃの世界ですよ。体育の先生になりたかった自分にしてみれば、いまこんなことをしているとは思いもしなかった。ガキ大将が20歳で人生の振り出しに戻っているから、だいぶ回り道しましたね。周回遅れを取り戻すには全力で走らへんと追いつかないでしょ? だからもう、めちゃくちゃ本気で楽しみましたよ。
たしか1996年ぐらいかな。当時の原宿は裏原ブームの初期衝動があって。兄貴に頼まれてはじめて裏原に服を買いに行ったときに、「裏原のお店ってこんなに人、並ぶんや!」って驚きましたね。しかも、おもちゃが売られていたんですけど、自分も持っていたやつやったんです。でね、それが昔に買った値段よりもめちゃくちゃ高かったんですよ。「これってどういう原理なんやろう」と気になって調べていくうちに、買い付けっていうシステムを知ることになって。めっちゃおもろいやんと思って、アメリカで買ってきたら売れたんですよ。やっぱり簡単に。
そこからもうちょっと勉強せなあかんと思って、渋谷で有名なおもちゃ屋さんだった「ザップ」っていう店で働きだすんです。お客さんとして来ていた裏原の人たちと仲良くなって、めっちゃ服とかもらいましたよ。お店に行って「今日は寒いっすね!」とか言うたら、「これ着て帰り!」みたいなノリでしたから。並んでも買えないようなジャンパーとかね。当時は原宿でお金を使ったことなんて、ほとんどなかったんちゃうかな。
あとね、昔はいつもジャージを着ていたから、会う人に「なんでジャージなん?」って聞かれるんすよ。わからないなりに頑張って服を選んで着ても、ふんだんにこだわりのある先輩たちから「なんでこの靴で、このジャンパーの色なん?」みたいに突っ込まれて。ちょっとぐらいズレててもいいやんって思ってましたけど、そこでファッションのことを覚えました。汗を拭いたりすることも当たり前になったし、めちゃくちゃトレーニングされた感じです。気づいたら、それが楽しくなっていたっていう。
ずっとザップに勤めてたんですけど、あるとき会社が倒産することになって。そこで「俺の人生やばい」と思って〈BOUNTY HUNTER〉のHIKARUさんに話しに行ったんです。その日はすぐ解散したんですけど、次の日に電話がかかってきて、「次はもう自分でお店をやればいいじゃん、店の名前決めてあげたから」って。実は〈BOUNTY HUNTER〉を立ち上げるときに、ブランドの名前を〈SECRET BASE〉にしようか迷っていたそうで。こっちの名前使わへんかったからあげるわ、と。
店のオープン日だった2001年のクリスマスで、500人くらい並んでたかな。裏原ブームの崩壊直前くらいでしたけど、何を出しても売れましたね。つくったら完売の繰り返し。ありがたいことに一度も下降線を辿ったことがないんすよ。いまも売れなかったらどうしようって悩むことはないけど、ぬるま湯に浸かってる自分がいて。もう一発、二発は当ててやりたいですね。なんなら炎上してみたいですもん。
もしJリーガーになっていたら、人生のすごろくが終わっていたけど、違う惑星から来た宇宙人みたいなポジションだったからこそ、裏原の人たちに受け入れてもらえたんだと思いますね。いまも金髪で派手な見た目だから、一回しか行ったことない食堂なのに「いつもありがとう、おまけしとくよ!」って言われたりして。こうやって昔のことを思い出すと、ほんま自分、ラッキーとポテンシャルだけで生きてきただけかもしんないです。
いまは20代の子と遊ぶことがめっちゃ多くて、若い子らに負けへんようにっていう気持ちが原動力になっていて。全力じゃないですか、人生は。まだまだ朝まで飲みたいですし、10人ぐらい連れて飲みに行ったときは、さっと払える自分でいたいですしね。 -
原宿=好きなことを堂々と言える。
新しいことをやりたいというよりは、自分たちがやりたいことを探していたっていう感覚なんですよ。若い頃、音楽やファッションのイベントに遊びに行くと、雑誌で見かけるモデルや美容師、ショップ店員たちが集まっていたんです。人が集まる場があれば何かが始まる。そんな世界観に憧れて、学生時代から仲間とイベントを企画してきたんですね。
僕が仲間とやっていたイベントはちょっと特殊。テクノ、ロックとか、ひとつのジャンルに特化したイベントではなくて、いろんな知り合いを集めて、バンドもヒップホップもいれば、いろんなジャンルのDJがいるミックス感のあるものを企画していたんですね。いまでこそかっこよく言えばスタートアップですけど、僕はサラリーマン経験が人生で一度もないんですよ。だから常識外れだったし、会社を始めた頃は事務所を借りるお金もなくて、ほぼ毎日、「GAP」前でスカウトばかりしていました。
イベントの企画・運営からマネジメントに派生していったという会社の歴史があるけど、僕自身は何かスキルがあるわけじゃない。遊びでDJとかバンドをやっていたけど、自分で音楽をつくることもそうだし、ビジュアルをつくることもできないんですよね。唯一好きなのが、人と人を繋げることだったっていうだけなんです。
僕の学生時代から原宿の変わらないところは路地というか。ウチの会社の辺りに残っている民家やお店の街並みがすごく好きなんですね。商店街がいっぱいあって、コミュニティも複数ある。日本の都市開発はいろんなことが組織化されていて、ビルを壊しては新しく建て直すスクラップ・アンド・ビルドの考え方が強いと感じていて。逆に海外の場合は景観と建物を継承しながら未来に繋げていくっていう考え方が根付いているんですよね。僕は原宿がそういう街になってほしいと思いますね。時代ごとのシーンはあるんだけど、変わらない建物も残り続ける。それってすごく大事な気がしています。
コロナ前の原宿は再開発の勢いがすごくなって、ビルが立て続けに建って観光地化してきたんですね。なんだかつまんない街になっていきそうな嫌な予感がして、原宿から出ていくかどうかを悩んだ時期があったんです。いっそのこと、下町のほうに移ってみようかなって。僕らは地名の原宿というよりも原宿というカルチャーに育ててもらったので、拠点を移すことに抵抗はないんですよ。
コロナ禍で緊急事態宣言下の原宿はまったく知らない街になっちゃいました。僕は自宅もこの辺りだから、昼の12時に散歩していると人がいない状況に驚いて。表参道、キャットストリート、竹下通りもほぼ全部のお店が閉まっている風景が異様だった。そんな街が眠っている状態が続くと空き店舗が増えていって、「FOR RENT」の張り紙をたくさん見かけるようになりました。街って急に変わるんだなって衝撃を受けたけど、コロナが明けてからはこの街の活気とエネルギーのすごさを改めて感じていますね。
どんなに巨大な資本が来ても、その色だけに染まらないのが原宿のおもしろさじゃないですか。いろんなカルチャーが共存できているからこそ、僕らは自分たちにできることで、その一端を担っていきたい。暮らしている人、働いている人、遊びに来る人、みんなが楽しめる街って珍しいですよ。
きゃりーぱみゅぱみゅ、新しい学校のリーダーズだったり、僕らがマネジメントしているクリエイターたちとブームをつくってきたけど、大切にしているのは一人のファンからファンダムが増えて、ひとつのカルチャーを育てていくこと。いまは好きなことを好きと言える時代になっていて、僕の世代にはなかったカルチャーがあるんですよね。ハイファッションもアイドルも好き。そのミックス感は昔から原宿に根付いているものじゃないですか。原宿のように何かに染まらない日本のコンテンツを、この街から世界へ発信していきたいですね。 -
デニムの魅力を、後世に残していきたい。
地元・高知県で10代の頃から、雑誌の中で見る東京の古着屋さんに憧れて。高知の古着屋も回ったんですけど、ファッションの発信源である原宿の古着屋で働きたい気持ちが強かったんです。
1999年7月から「BerBerJin」で働ける形になったことも人生の転機のひとつ。いまでこそヴィンテージデニムアドバイザーの肩書きを名乗れるようになったけど、20代の頃は総柄のシャツに極端に短い短パンを合わせたりする派手なファッション(笑)。30代になってヴィンテージの知識と経験値が培われてくると、40代を前にして人生最大のターニングポイントが訪れたんです。それは何かというと、Levi's 501®の書籍(『THE 501®XX A COLLECTION OF VINTAGE JEANS』)をつくったことなんですね。
僕は誰よりも希少なヴィンテージを見てきた自信はあるし、このBerBerJinの地下1階のフロアでは、お客様に必ず試着をしてもらってから販売します。自分なりのこだわりを貫いてきたなかで、ヴィンテージデニムの魅力を後世に残したいという思いが芽生えたんです。
書籍の完成まで2年。仲間と時間をかけて出版できたことで、サンフランシスコ本社と日本、どちらの〈Levi's®〉とも関係が深くなった。コレクター、マニアの方たちを含むデニム愛好家のみなさんとの新たな出会いにも恵まれた。ヴィンテージで結ばれた交流以外に、ドメスティックブランドがつくるデニムのプロダクトに対してアドバイスする仕事も増えてきた。ヴィンテージの世界を追求してきたことで、僕のデニム人生に深みが増して、本当の意味でのスタートラインに立った実感がありましたね。
ブランドのアドバイザリー以外に、自分自身が〈New Manual〉というブランドをディレクションする立場にもなって、デニムの産地として有名な岡山県児島を訪ねる機会が増えました。〈Levi's®〉が日本製デニムを使うほど、日本のデニム産業は世界で高く評価されている。僕もその素晴らしさは理解していたものの、コロナ禍に縫製や加工を担う工場の方々が直面した苦難や、デニム人気が高まる一方で生産が追いつかない状況だったり、現地に足を運んでデニムづくりを支える方たちと対話することで、たくさんの現実を知ることができたんです。デニム産業の素晴らしさを世界に伝えるだけでなく、ものづくりの現場が抱える問題や課題を、どうやって解決していけるのか。デニムと関わっていくスタンスを見つめ直すきっかけをもらいました。
僕の故郷の高知県には、ジョン万次郎という日本にアメリカ文化を伝えた偉人がいるんですね。その方がアメリカから日本にデニム生地とミシンを伝えたとされていて。ジョン万次郎をオマージュした「ジョンマンデニムプロジェクト」に携わることになって、デニムを通じて地元との関わりが生まれたんですね。いまは四国で生産しているけど、将来的に高知と岡山が繋がったらおもしろいよなって妄想しています。原宿でヴィンテージデニムの魅力を広めながら、これからのデニム文化づくりにも貢献できたら最高だなと。
デニムには脈々と築かれてきた歴史があって、時代に合わせて進化してきているけど、形としてはずっと変わっていない。年代によっては一点モノが特に多くなってきているので、そのスペシャルなモノがある場所は把握しておきたいんです。できれば海外に流れず、日本にあるということが理想ですね。40代も後半になって、ヴィンテージデニムに関する情報発信はもちろん、所有欲もより一層増してきています。ちょっと酔っぱらってしまうとジュエリーとかを失くしちゃうんですけど(苦笑)、ずっと憧れていたものは必ず手に入れて、死ぬまで使い続けていきたい。50代にはどんなデニムや人との出会いがあるのか、楽しみで仕方ないですね。 -
手を抜かない。お客様の顔を忘れない。
千駄ヶ谷でこの商売を始めたのが昭和54年。一番大事にしているのは、手を抜かないことです。私も主人もインスタントなものが嫌いだから、全部手づくりの料理をお出ししたいんですよ。手を抜いたら味が一気に変わっちゃうから、お客様をがっかりさせちゃう。だからこそ、ひとつ一つのメニューを自分たちの手でつくることにこだわっているんですね。
接客もお客様の顔を忘れないように心がけています。いつでも気持ちよく来ていただけるようにね。ありがたいことに、開店当時からの常連さんもいますし、私のことを「お母さん」と呼んでくださる若いお客様たちも。もう何年も来ていないお客様がいらっしゃると、「お久しぶりですね」と声をかけています。とにかくお客様が来てくださることが私のやりがいなんです。お客様の中には行列を嫌がる方もいますけど、そんなに時間がかかるわけじゃないので、ちょっとだけ待っていただければ大丈夫。お昼の少しの間だけですから。
ウチはお蕎麦屋さんなのに、中華そばと半カレーライスのセットが人気メニューのひとつなんです。私たちは「半カレー、中華そば」って呼んでますけど、中華そばとカレーライスは随分前からあるんですよ。セットメニューをつくったほうがいいんじゃないかって考えてくれたのは息子なんです。それが15年前くらいだったかしら。お昼で売り切れになったりすることが多いので、夕方まであること自体が珍しいですね。
あのね、欲を出したらきりがないし、手広く商売してもしょうがないと思うんです。広げた分だけどこかで失敗も増えるし、それこそ効率を求めちゃうかもしれないでしょ。あまり先のことは考えないで、一年一年を大切にね。お店を長く続けてきて、家族で経営していることが何よりも嬉しいです。息子だけじゃなく孫も手伝ってくれるなんて、本当に。セットメニューも息子が考えてくれたんですよ。冬にけんちん汁とけんちんそばを出すんですけど、去年は忙しすぎて諦めたんです。私も78歳ですから、疲れをとるためにしっかりと寝ないと。次の冬こそ復活できるように健康でいたいですね。もちろん手づくりで。 -
良い服をつくろう、恥をかかせないために。
ブランドを始めて24年間、一度も目標を持ったことがないんです。長く続けることが美徳だと思わないけど、自分で会社を始めてから気楽な瞬間は一度もなくて。お店にお客さんが来てくれること、商品が売れることに、常に一気一憂するんですよ。お客さんがいなければ、この人生は終わるなって。少ないメンバーで目の届くところのことに全力で取り組んできた。いままでの時間が濃くないわけがないんですよね。
僕は自分のキャパシティを超えて無理できないというか。目の前のことだけを地道に続けている感じなんです。1年後、3年後、さらに先の目標とかを掲げたことがないし、コラボレーションやランウェイ、パリでの展示会の話も、その時々のタイミングで出会った人との会話の流れからきっかけをもらってきただけで。逆に自分からは畏れ多くて言えないですよ。
コレクションの服づくり以外に自分からほとんど動かない。リスクを抱えるほど、自分のクリエーションができなくなるんじゃないかって不安になる。だからこそ、僕がお店をやることは一生ない。そう信じていました。でも、街の盛り上がりと共に僕らも人気が出て、卸先だけでこのまま販売していくだけだと、このブームと一緒にブランドが終わってしまうかもしれない。何かを確立しないとブランドの未来がないって危機感を覚えたんですね。その答えがお店だったんです。
自分の中に「売らなきゃいけない」っていう考えができた瞬間に、僕はブランドをやめるだろうなと思っていたこともあって、お店をやりたくなかったんですね。でも、お店を始めたことによって、モノを売ることへのリアリティが出てきて、お客さんを含めたコミュニティが見えてくるようになった。僕の中ではそこからすごく成長していった実感があります。お客さんが「これ、いいですね」ってかけてくれる一言が原動力になるんだなって。それが100人、1,000人もいなくていいんです。お客さんの中には僕より〈WHIZ〉に詳しいマニアが何人もいるんですよ。ありがたいことにシーズンの立ち上げの日、限定アイテムを販売する日とか、いまも前日から並んでくれる人たちがいるんですよね。地方にも行くと、名前は知らなくても顔はわかるお客さんたちがいて。たった一人でも喜んでくれたらいいんです。その人たちに恥をかかせないために、もっと良い服をつくろうって思うから。
僕の仕事って机の前で座っているのが一番ダメ。デザインのインスピレーションを得ないと何も始まらないんで。極端な話、場所はどこだっていいんですよ。とにかく外に出て人と話す、どこかを歩くとか、日常に近いことのほうが一番のインスピレーションになりやすいんです。
たとえば、次の秋冬コレクションのヒントは、ご飯を食べに行った店にたまたま居合わせた先輩からもらっていて。その人はいつもアクセサリーをたくさん付けていたんですけど、その日は万歩計と結婚指輪だけだったんですよ。「ウソでしょ?!」って信じられなくて。パンツは軽い生地でウエストゴム。「マジか……。こんなに変わっちゃう人が世の中にいるんだな」と思ったら、次のコレクションは軽い素材とかウエストゴムを使ってみようって。僕は結構装飾するのが好きだから、そういう概念があまりなかったんですけど、めちゃくちゃおもしろかったですね。
僕、高校生と中学生の息子がいて、この間、次男の空手の練習に付き合ったんですよ。僕は見ているだけだったけど、子どもが結構な怪我をしちゃって、救急車で運ばれたんですね。救急車のサイレンが鳴っていて子どもは痛がっているのに、僕ははじめて乗った車内を細かくチェックしちゃったりして。何かひとつでもインスピレーションになるものを拾おうとしている自分がいたんです。さすがに冷静になりました。この状況でワクワクしているのはヤバいなって(苦笑)。
一番楽しいことが服づくりだから、いつまでもこんなことを考えるんだろうな。いい加減、次の一番が出てこないかなって思いますもん。そうしたら辞めてもいいんだけど、たぶん僕は服をつくり続けていくんでしょうね。 -
謙虚に素直に、圧倒的ナンバーワンを。
原宿って70点、80点みたいに平均点を狙ったら絶対に突き抜けられない街なんですよ。自分の核とスタイルを決めて、そこからは100点、200点以上のものを出していかないと絶対に目立てなくて。自分にとって原宿は通っていた専門学校が近くにある原点みたいな場所で、店の近くは落ち着くテンションなんですけど、特殊な街ですよね。ゴスロリ、ギャル、ストリート、モードとか、どれだけスタイルがあるの?って感じ。
仕事も人生も結局のところは一緒。謙虚に素直に生きることが一番大切なんじゃねえかなって思います。物事がうまくいかなくなるときって、嘘をついていたり、調子に乗っていたりする。そういう後ろめたいことをしていると、絶対足元を救われるんだなって。若い頃はかっこつけて尖っていたかもしれないけど、9年間やってきて、このモットーに行き着きました。
「ブラザーズ(MR. BROTHERS CUT CLUB)」を立ち上げた当時って、僕らみたいな刺青を出して髪を切る商売の仕方はなかなか認知されなくて。いまでこそバーバーが増えてますけど、最初にこの店を出した頃は散々叩かれました。いまでは普通になったフェードカットも、「刈り上げと何が違うんだよ」って言われたりして。でも、たった10年弱で変わるんですよね。
別に否定しているわけではなく、美容室の男性客を男らしいバーバーに取り戻そうっていうコンセプトで動いてきて。僕らだけじゃなくて共感してくれる仲間を増やしていきたかったんです。ブラザーズみたいな店が全国にできることがベストだと考えたら、自ずとメンズカット技術のセミナーに行く機会が増えて行ったんですね。自分が同業の人たちに感謝されるなんて想像していなかったけど、御礼の言葉が積み重なっていって、やめられなくなっちゃいました。自分の仕事が誇らしくなったと言ってくれたり、涙を流してくれる人もいたりして。
僕は既存のお客さんのカットしか担当していないんで、店で過ごす時間が少なくなっていることに申し訳なさを感じていて。それでも技術や想いを伝えていくことに、いまは力を注いでいこうって決めています。プロダクトをつくるのも、技術向上のための教本をつくるのもそう。業界に恩返しをしたいし、盛り上げていきたいんですよ。技術をオープンにしちゃって大丈夫なの?って心配されることもあります。でも、日本はバーバーが確立されていないからこそ僕らが持っているものを公開するべきだし、広めることに意味があるんです。
大袈裟かもしれないけど、それまでの動きから社会貢献の気持ちも出てきて、自分たちが運営する理容学校をつくりたいって思うようになりました。その目標は実際に達成できたんですけど日本ではなくて。まさかのガーナなんですよ。一番びっくりしているのは僕らですからね。ガーナは日本と違って、バーバーになるための国家資格はないんです。逆に言えば誰でもバーバーになれるんだけど、僕らのノウハウを伝えることで文化を高めていきたいし、職業の選択肢を増やしていきたい。そんな志を持って、現地で学校を運営しているチームと日本のアパレルブランドと形にできたプロジェクトなんです。ガーナから始まって海外展開して、最終的には日本で理容学校をつくりたいですね。
アメリカの古き良きバーバー文化が根付いているL.A.にも店を出せて、誰も想像できなかったガーナに理容学校をつくれた。だから、誰にも文句を言わせない自信がある。自分たちの襟元を正していきつつも、ノリとしては断トツに一番にならないと気が済まないのが僕らなんです。 -
愚痴りたくない仕事を選んだだけ。
1993年から原宿に事務所を構えているんだけど、拠点はどこでもいいわけ。ただ自分が住んだり仕事したりする街が一番かっこいいと思っているんだよね。だから、その街のことを知らないでどうすんの?って考えながら僕はここで生活している。住んだこともないのに、ニューヨークやロンドンに憧れても空想でしかないし、ちょっと恥ずかしくないかって。だったら原宿を知り尽くして、その魅力を語れる人でありたいよね。
僕って基本は編集者。やること全部が編集だと思っているんだ。写真を撮るのもギャラリーを運営するのも編集の中のひとつであって。僕がやってきたのは、幅がない人たちに幅をつくるということ。『egg』という雑誌をつくったのは、時代の真ん中から離れた場所に置かれていた女子高生みたいな人たちが集まれる場所を形にしたかったから。日本のシステムから外れている人たちをコンテンツにすることで、日本のいいところと悪いところがあぶり出てくると思いながらやっていたんだ。
ギャラリーのキュレーションもそう。アートブームだとか言われている割に、若いアーティストが出ていける場所がなくて。僕はその道を目指していない人が表現していてもアートだと思うんだよ。アートと見なされない人が自分の作品を飾れる場所をつくりたかったから、ギャラリーを運営しているわけで。
バンドに例えるとさ、インディー時代はよかったのに、メジャーデビューすると大人の意見が入ったりしてダメになったりするじゃない。僕はあくまでもハブになって、若い子たちが来やすいような場所と状況をつくってあげることができればいいなと思っていて。編集の準備を一生懸命やって、あとはそこに集まるみんなが流れ込んで、その中のルールみたいなものをつくりながら、のびのびとやってくれればいいの。だから、お寿司屋さんの板前だよね。ネタが良ければ基本はうまいんだけど、その目利きは必要じゃん。本当においしいネタを持ってきて、素材の良さを活かした寿司を食べてもらえればよくて。そんな場所を今後ともつくっていきたいね。
肩書きはたくさんあるけど、憧れの存在はいないし誰かを真似してきたわけじゃない。その時々の雰囲気のなかで自分のポジションを考えながら、ブームに乗っかるのかどうかを意識するんだけど、アンディ・ウォーホールがかっこいいと思っても、僕にとって素晴らしいのはあくまでも彼の方法論であって。そうやって小さい頃から編集者みたいな視線で見てきたから、好きというよりもちょっと冷めた感じ。かといって、俯瞰しているわけでもないの。自分の価値観と世の中の価値観に対象を当てはめようとするんだ。
新しいものを見つけることが僕の仕事とも言えるよね。それも世間や誰かの評価は関係なくて。自分で「これ、おもしろいじゃん」と思ったものをピックアップして、昔は雑誌や場所を通じて紹介してきたけど、僕がプロデュースしたにしても、『egg』という編集部がある会社の持ちものになっちゃう。僕が最初に思い描いていた女子高生の良さとはかけ離れていってしまうんだ。そういったことを何度か経験してきて、自分で最後まで面倒を見られるものをつくらなきゃと思って、ギャラリーを運営していたりするの。
僕の仕事って女子担当が多いでしょ。ギャル雑誌をつくったり、女の子をいっぱい撮っているから、チャラチャラした人だと思われたりする。遊びを仕事にしちゃったっていう自覚はあるから、オンとオフはまったく意識していないよ。逆に言うと、それは自分が求めていたものだと思うけど、「女の子といっぱい会っていいよな」って言われても、それが僕の生活だったりするから、もう普通なんだよね。傍から見るとすごく楽しそうに見えるっていうのは、理想の仕事と生活をオンオフなく平らにやれている証拠なんじゃないかな。
興味のあることを仕事にしてきただけ。だから仕事を理由に愚痴なんかない。我慢して愚痴になる仕事って最悪でしょ。生活が切り詰まったとしても、やりたいことを仕事にしたい。家族や自分のことを考えた結果、僕は精神的に健康な仕事のやり方を選んだんだ。 -
毎日同じことを繰り返す、街の定食屋がいい。
店を始める前はストリートファッション雑誌のライターでした。ファッションっていうあまり実態が定かではないものに携わってきて、提供する商品に決まった値段が付いている飲食店への憧れがあったんです。飲食だったら業態は居酒屋でもカフェでもよくて、最初は釜飯屋をやりたかった。ヨゴロウって祖父の名前だし、なんだか釜飯屋っぽいなって。でも、この店のある通りに夜来てみたら人がいなかった。とりあえずカレー屋からやってみようって軽いノリで始めたんですよ。志が高かったわけではなくて。
そもそもスタートラインが見切り発車だったし、自信がないから一般のお客さんに満足してもらえる自信がなかったんですね。いまも看板は出していないけど、友達とか知り合いが来てくれたらいいやって思っていました。身内を相手に練習も兼ねて営業していくうちに、「おいしいね」「いいもの、つくってるね」って言われることが自信に変わっていって。できることを取り入れていったら徐々に、一般の方たちも来てくれるようになった。飲食店への深い動機もなかったのに、お客さんが来なくて大変だった経験はなくて。体力が持つのであれば、なんとかやっていけるかなっていう実感はありましたね。
最近は週末なんかは行列がすごいことになっちゃうんですけど、僕の原点は人気店じゃなくて、街の定食屋なんです。流行りを意識した料理よりも、地元のソウルフードが好き。この辺りのローカルな感じは大切にしてきたのかもしれないです。本当は列の並び方の張り紙も出したくないんですよ。できれば店側からそういうことを発信したくないし、注意せずともある程度の規律を持って優しく接する感じが理想なので。イベント出店のお誘いもありがたいんですけど、全部お断りしていて。やっぱり、お店に来てくれるお客さんを大切にしたいんですね。SNSは僕の性分に合わないから、お店も個人もやっていなくて臨時休業の案内もできない。わざわざ来てくれたのに休みじゃんって思われるのとか結構気にしちゃいます。
いま以上に忙しくなりたくないし、お客さんの楽しそうな顔を見る余裕があるくらいが理想的。僕はレゲエが好きなんですけど、お店で流す音楽はダブだとちょっと緊張感が走るんで、ロックステディとかラヴァーズロックのゆるい感じが調子いいんです。ライターだった頃は仕事が終わっても夜な夜なゲームしたりして、毎日が文化祭の前日みたいな生活でした。そのノリでそこそこお金をもらって30代が過ぎていって、当時の仲間にはちゃんと仕事できないような大人になった人が多いかもしれないですね。
会社勤めが一度もない僕もたぶんその1人だけど、ずっとのんきにやってきたら、こういう仕上がりになったって感じなんです。でも、いまのほうが真面目にやっていますね。そういう意味で言うと、いまはあまり仕事の中に遊びの要素はないかもしれない。健康を維持して、営業日に同じことを繰り返す。その中でも多少の変化はあるんですけど、基本は毎日そんなに変わんない労力なんですよ。
かなりガテン系だと思うから、僕は睡眠を重要視していて。ほんとはもうちょっと寝たいんですけど、毎日11時ぐらいには寝て、5時には起きています。仕込みに余裕がある日でも6時半には店にいないと調子が狂っちゃうんですよね。いま思うと、そこまでこの生活が染みついているんですよね。
これ以上は自分でできることを増やしたくないし、できれば、もうちょっと楽な感じにしていきたいくらいかな。営業日を減らすとか。のんびりと、当初描いていたカフェみたいな感じでカレーもあるくらいの店ができたら理想的かもしれないです。ペースが変わったとしても毎日健康でいて、同じことを繰り返す。それが一番濃い人生じゃないですかね。 -
本当におもしろいものはSNSで見つからない
16歳の頃、高校生じゃできないことがしたくて。原宿にあった「OH!GOD」っていうレストランでバイトし始めて、千葉から原宿まで通うようになったんですね。
「OH!GOD」は変わったお客さんがたくさん来るようなおもしろい店でした。自分がそこで働いていたことで、人生の方向性が間違いなく変わりましたね。いろんな生き方のお手本を見せてもらえたというか、漠然と大人になることに対して、「これでいいんだよ」っていうサンプルをたくさん見させてもらいました。いい意味でも、悪い意味でも。そう考えると、原宿は自分の人生に大きく影響している街だと思います。
原宿っていろんなトレンドの中心っていうイメージがあるけど、俺の中では人を大切にするカルチャーがある街だと思っていて。みんな、好きなものが違うけど、その人となりを大事にしているから、おもしろい組み合わせのコラボレーションとかイベントができたりする。それって人と人との繋がりであって、街もカルチャーもそこにいる人たちから生まれるんですよね。
俺はこんな格好だから、お客さんは正直、声をかけづらいじゃないですか。なんなら威圧感を受けると思うけど、俺も10代の頃は好きな店に行くのは緊張しましたから。でも、怖そうな店員さんに話しかけたら気さくに接してくれて、そこから会話が生まれて、自分のことを覚えてもらえた。それがいまの自分に繋がっているから、お客さんにはできるだけオープンでいたいんです。
ここはヴィンテージショップだから、絶対にカルチャーが付随してくる場所じゃないですか。俺は商品を売る手前で、いろんな話をたくさんしたいし、お客さんにも好きな音楽とか映画の話をしてほしくて。会話しているなかで欲しいものがわかれば一緒に探すし、見つかったらよかったねっていうだけというか。学生時代にめちゃくちゃかっこいいバンドを見つけて、友達と「これ、ヤバくない?」「俺もCD買うわ」って盛り上がっていたときと何も変わらない感覚なんですよ。だから、もしも俺との会話の中で、めちゃくちゃいいと思える洋服とかが生まれて、それを買って着てくれたときに思い出が乗っかってくれたら、それ以上に嬉しいことはないなって。
本当はよくないんだろうけど、戦略とか売り方とか、ほとんど考えていないんですよ。俺がそういうやつだったらここにはいないし、やっぱり自分が好きなもの、いいと思うものを伝えたいだけなんですよね。いまの時代、商品じゃない何かを持ち帰ってもらうために店があるんじゃねえかな。買い物なんて、ワンクリックで簡単にできるんだから、お客さんにはかっこいいバンドの情報交換でもして、楽しくなってもらえればよくて。そのおもしろさってスマートフォンを眺めているだけではわかんないから、一歩、二歩と踏み出して、店を訪ねてほしいなって思うんです。
人生はやるのか、やらないのか。常に二つの選択肢しかないから、俺はやらないと次が開かない気がするし、自分で行動してきたからこそ、いまがあるわけで。できるだけ動き続けて、いろんなことに挑戦するほうがいいと思うんですよ。失敗しても、またやればいいだけの話なんで。何もしないよりは、やってできなかったほうが次に繋がるんじゃないかなと思うし。
いまは昔と比べて情報をキャッチしやすくなったけど、お店で生まれるものってiPhoneの画面を眺めているだけじゃわかんない。本当に大事なことやおもしろいことってSNSには絶対に載らないですから。Instagramで気になったお店、そこで扱っている洋服のかっこよさ、店員さんのスタイルと人柄とかって、実際にその場所を訪れてコミュニケーションをとることで伝わってくるじゃないですか。気の合う人と出会って、お互いが好きなことを「ヤバい」って言い合う。新しい友達ができて、その人がまた誰かを紹介してくれる。それを死ぬまで繰り返していけたらいいっすね。 -
笑顔になれば、運気が上がる。
デザイナーになろうと思って広島から東京に出てきて。当時の原宿はまだヒッピーがいっぱいおったのよ。じゃんがらラーメン(「九州じゃんがら」)の近くの路上で占い師のおじさんに自分の人生を占ってもらったら、ようわからんことを言われて。「こんなんだったら私にも占えるわ」と思うて、翌日から原宿の母を名乗って占い師になったの。
私の占いの特徴は楽しませてあげること。あまり悪いことを言わないで、ほっとさせてあげたいんよ。「何やっても思うようにいかないんです」とか言うお客さんが結構いるけえ。自分でそう思い込んどったら、潜在意識にマイナスの言葉が入ってくる。そうじゃなしに、ダメなときでも発見できることがいろいろあるけえね。そうすると、ええ方向に変わっていくんよ。マイナス思考の人にはなかなかチャンスがやってこないから、良くなる自分を考えんさい。プラス思考になるとね、運気が変わってくるけえ。偉そうな人とかかっこつけとる人も、あんまり運気が良くないんよ。
占いをしてきて楽しいのは、お客さんが喜んでくれること。私のことを「すーちゃん」って呼んでくれて、お客さんを連れてきてくれたりね。占いの生徒たちにも伝えてきたのは、あなたのところに来てくれるお客さんを大事にして、占い師は偉そうな顔しちゃダメよって。テクニックみたいなものってないけえ。たとえば、恋愛と不倫の相談が多いんやけど、不倫しとるいうことは罪をつくっとるわけ。不倫相手と結婚しても幸せになれる人はほとんどおらんよ。だから、いまの人を大事にすることが運気を上げてくれるけえね。
私は広島出身やから、いつかはお好み焼き屋をやりたいね。開運のお好み焼きっていいと思わん? 黄色、赤とかいろんなお好み焼きをつくって、黄色を選ぶ人は甘えたいんだねって占ってあげて。遊びたい、楽しみたい気持ちの表れが黄色なんよ。赤を選ぶ人には積極的に行ったほうがうまくいくってアドバイスする。恋愛も仕事もね。赤はスペインなんかでも闘牛士が赤いマントを持っとるでしょ。色によって話しながら、その人にこうしたほうがええってね。
私には原宿がおもしろいかどうかはようわからんけど、みんないきいきしとるよね。街を歩いているのは地方の人が多いでしょ。原宿に来ることをすごく楽しみにしとるんよね。だから、私もお客さんにはもっと人生を楽しんでほしいけえ。
最後にみんなで笑う練習しよっか。無理やりにでも笑顔になれば、運気が上がってくるけえ。いまから馬鹿笑いするよ。体の中がじーんと温かくなったでしょ。これは血管が開いてくるから。それって、やる気になるってことなのね。そうすると前向きになるし、物事の可能性がいっぱい現実になってくるから。 -
楽しいと悲しい、同じくらいあるのが人生。
kit galleryが原宿にできたのが2009年。あっという間に14年が経ったけど、この場所に来て本当によかったと思う。原宿はパワースポットみたいな人たちがたくさんいて元気をもらえるし、かっこいいことを自然体でみんなやっていて。それこそ、人目をきちんと意識するようになったのも、原宿に来てからついた癖かもしれない。変な格好をしていると、先輩たちがビシッと言ってくるので(笑)。別にそんな、すごくオシャレをしてくるわけじゃないけど、ライダースも今日みたいなピンクのパーカーも着たりする。原宿に通うっていうことを無意識に考えているんだろうね。
原宿でもこの辺りってね、観光目当ての人が少なくなるんだよ。とんちゃん通りから一本入らなきゃいけないから、目的がない限りは来る場所ではないんだよね。生活している人や働いている人の街に変わるっていうのかな。オープンした当時はもっとお店が少なかったしね。
いまはギャラリーを運営したり、音楽の活動をしたり、いろいろとやっているんだけど、それが僕の性分なんだと思う。興味があることができたら覗きに行きたくなっちゃうんだよね。自分の中に好奇心があるうちはずっとそうなんだろうな。もちろん元気だからできるわけだけど気持ちの波はあって、あまり人に会いたくないなっていう閉じた日もある。そんなときは一人で決まった飲み屋で過ごしたりするんだ。
でもね、DJをやっていると元気だろうが元気であろうがなかろうが現場に行かなきゃいけないでしょう。「よし、じゃあやるか!」っていう状態に気持ちを上げていかないと。無理やりにでも自分のスイッチを入れるスキルが身についたことで、自分が騙されて元気になっちゃうんです。
僕の肩書きってなんだろうな。仕事の分だけ肩書きも多いけど、DJだけはずっと続けているライフワークなんだよね。いまは二つのバンドがお休み中だから、自分主体のことをやっているという時期。実は最近、絵を描きはじめていて。これまでも自分のプラカード展やイベントのフライヤーなんかにイラストを描いてきたけど、もうちょっと本格的なものを。この間は下手なりに海を描いてみたりして、いつか発表できたらいいな。
自分は決して天才ではないから、こうした隙間産業みたいなところに入っちゃったんだろうね。「ちょうどここに誰もいないから、俺やるわ」みたいに。僕の周りには何かに特化したかっこいい友達がいっぱいいて、そういう才能のある人たちをサポートするのが合っていたんだろうと思う。そう考えると、アーティストというよりはプロデューサータイプではあるのかな。「ここでこんなことやってみれば?」とか「こういう音楽つくってみたら?」って声をかけてさ。
ずっとインディーの世界に軸足を置いてきたから、自ら何かを起こしてきた大先輩たちがいる原宿は自分に合っている気がする。裏方とは言わないけど、このぐらいの立ち位置がいいのかもしれないね。テレビとかに露出していく人たちは素晴らしいと思うけど、僕には向いていないだろうし。知る人ぞ知る、そのくらいがちょうどいいんだよね。
音楽もギャラリーも長いことやってきたおかげで、人との縁はたくさんできた。繋がりが増えるほど楽しいこともたくさんあるし、同じくらいに悲しい出来事もあったりするんだよ。見送らなきゃいけないこともあったりとかさ。そのすべてが人生なんだなっていうのが、50歳を過ぎてから思うことかな。 -
おもしろいけど、子どもには継がせたくない。
亡くなったじいちゃんが創業して、今年で46年になるのかな。最初は世田谷の経堂に店があったんですけど、俺が3歳の頃に原宿に移転してきたんです。原宿の八百屋ってインパクトはあるけど、自分にとってはここにあることが普通だったんですよね。学校を卒業して、一回他の職業に就いてから23歳で家業に入りました。ばあちゃんに「外の飯を食ってこい」って言われて、何年かやったら八百屋になるって約束したんで。「挨拶、愛嬌、足し算、引き算だけできれば八百屋はできる」って言われたのは、よく覚えていますね。
挨拶とか笑顔は自然にできるようになったけど、やっぱり10何年も八百屋をやっていると、それなりの知識が付いてきて、それは自信にも繋がっているんです。最初は「この果物、どんな味?」って聞かれても、「え、知らないんだけど……」って心の中で思いながら売っているだけ。実際に食べたことがない商品が多かったんですよ。それが嫌で、自分で買ってみて食べることを繰り返して、一つひとつの味を説明するようになりました。おいしいだけじゃないですよ。まずいものは正直に言いますし、それでもいいお客さんには安くさせてもらっていて。
いまは親父が社長で、俺が社員。母ちゃんも俺の奥さんも手伝ってくれています。「家族経営でいいね」って言われるけど、最近はそれが悩みに変わっちゃいましたね。他人のほうが素直に「はい」って言えるからラクだよなって。父親と息子っていう関係を挟んじゃうと、「うるせえな、いちいち」って思うこともあるから。その正直な感じが良いか悪いかは微妙なライン。週6日、早朝から夜まで家族と一緒に働いて、嫌になるときもありますもん。久しぶりにご飯にでもいこうって誘われても、「いいよ。いつも顔合わせてんじゃん」って返しちゃうんですよね。
それでもこの仕事を続けられるのは、ウチが原宿にあるからでしょうね。俺が入ったときにはアパレルとかのお店だらけで。その頃と比べると、外国人観光客の数がめっちゃ増えましたよね。
市場とか配達している飲食店で話すんですけど、ウチに寄ってくれるお客さんって、店の前を通る人数の100分の1とか1000分の1なんですよ、きっと。ブランドの商品を買いに来ているんだから八百屋には来ないっすもんね。お客さんは基本的にこの辺りに住んでいる方と飲食店の方、いまは外国人観光客の方が圧倒的に多いです。買った果物をその場で洗ってくれって言われて、歩きながら食べるのは外国人らしいなって。歩きながら食べて美味しかったら、また夕方くらいに戻ってきてくれて、ホテルで食べる用に買って帰ってくれるんですよ。接客は英語ができなくても、身振り手振りでなんとか。ほら、挨拶と愛嬌と計算で乗り切れるでしょう?
店に立っていると、「なんでここに八百屋?」って若者が驚くんです。僕からすれば、あなたの生まれるずっと前からウチがあって、逆に周りが変わったんだよっていう感覚。近所の方と話していておもしろいのは、「あの八百屋の近くね」って、ウチが目印になってるんですって。お店が多い原宿でブランドの名前を言ってもわかんない人もいるだろうけど、八百屋とか果物屋なら一発でわかるんです。
こんなにおもしろい場所の八百屋、他にないですよね。でも、自分の子どもには継いでほしいとは思っていなくて。やっぱり大変な仕事だって思いますもん。僕の娘が誰かと一緒になっても、絶対に継げとは言わないです。やりたければいいけど。俺はばあちゃんと自分が継ぐっていう約束をしただけで、代々やっていくとは言ったつもりはないんで。だから、俺が元気なうちはやりますよ。意地でも続けてやろうって。